痛みと寒さと絶望の中で。一番最初に差伸べられたのは、の手だった。



冷たくて暗い石の部屋。内側からは開けられない鉄の扉。

薬と、注射と。延々と繰り返される、師と仰いだ男の呪詛めいた言葉と。

そんなものだけしか無い小さな世界で、不意に現れたその白い手は、正に奇跡の様だった。










定期健診と称した人体実験の為に赴いたベルケンドから、バチカルへの帰途で俺を乗せた馬車は襲われた。

重なる実験の所為で身体が動かないどころか、意識すら朦朧としていた俺に、逃げる術は無かった。



気付いた時には石牢の中だった。

身代金目当ての誘拐か、と思っていた俺は、現れた師に愕然とした。



秘預言の事を聞いた。

信じられなかった。だが納得した。してしまった。せざるを、得なかった。

父上は俺がどんなに頑張っても、一度も俺を顧みてはくれなかった。それは俺が何時か死ぬ子供だと、解っていたからだと納得してしまった。



複製を作ると言われた。

俺と同じ顔同じ体躯をしたヤツを見せられた時、嫌悪した。それでこれは本当の事なのだと、実感した。

ソレが俺に代わって、『ルーク・フォン・ファブレ』として屋敷に戻る。俺の代わりに死ぬ人形が、今まで俺が持っていたもの全てを、俺から奪うのだと。



石牢からは、出して貰えなかった。

どんなに暴れても泣き喚いても懇願しても、薬も注射も実験も止めてくれなかった。



時折やってくる師は、その都度複製の状況を俺に言って聞かせた。

バチカルの兵士に無事保護された。記憶が無い事に、周囲は壊れ物を扱う様に優しく大切に接している。

使用人や姫君と仲良くなった様だ。柔らかい日溜りの中で、奥方に愛されすくすくと育っている――――――



理不尽だ、と思った。



俺はこうして苦しい思いをしているのに、偽物がどうしてそんな良い思いをしているんだ。

悔しかった。全てを奪われた事が。悲しかった。誰も俺と偽物が入れ替わった事に気付かないのが。

これも全ては預言の所為。そして俺から全てを奪ったあの偽物の所為。そう思って。思って。思い続けて。












そして俺は大人しくなった。

注射を打たれても、薬を飲めと催促されても、暴れも喚きもしなくなった。

どうでもよくなっていた。ぼろぼろだったんだ。身体も、そして心も。全部が壊れ掛けていた。



そんな、ある日だった。

慌ただしい足音が近付いてきて、蹴破る様に鉄の扉が勢い良く開かれたのは。





――――――逆光に、踊る様に長い黒髪が翻った。





目を見開いた。鼓動が一際大きく跳ねた。声を出そうとして、乾いた喉は何も音を為さなかった。

何だ、これは。そう、思った。



少ない光量の中で、青く発光しそうな程に白い肌。

闇に溶け込んでしまうかの様な黒い髪。

表情を消すかの様に顔の半分近くを隠した眼帯に、澄んだ湖の水面に映る月めいた銀を含んだ青い隻眼。

何もかもが作り物めいた、美しい、美し過ぎる人間だった。



彼の後ろから師匠がやってきて、彼に何か言っていた。

だが俺は、師匠が何を言っているのか聞いていなかった。

ただ、恐ろしい、と感じていた。突然現れた彼に。自分の偽物を見た時と同じ嫌悪感を、感じていた。

人を堕落させる悪魔は、人を魅了する為に総じて美しい容姿を持っていると何かの本で読んだ。彼はその悪魔なのではないかと、思った。



彼が、動いた。僅かに乱れていた息を整えながら、俺の傍らに片膝を着いた。

伸ばされた腕が恐ろしかった。触れられたら魂を抜かれてしまうんじゃないかと、そう考えてしまってびくりと身体が震えた。

そんな俺に腕は止まって。考え込む様に、指先は動いて。



額から、引き抜く様に外された眼帯。現れた、面に。

俺は息を呑んだ。



隠されていた左の瞳。そこには太陽があった。

己が身を自ら焼き、終焉に向かいながら。けれど生命に恩恵を与え続ける。

炎の赤に苛まれながらも金色に輝く、尊き太陽がそこにあった。



再び、伸びてきた腕。頬に触れた、指先。

魂は抜かれなかった。当り前だ。生命を育む太陽が、生命を奪うなんてする筈が無い。

その指先が、掌となって。俺の頬を、包み込み。





「だいじょうぶ――――――俺は君を、傷付けないから」





そう言った、彼の微笑みが。

霞の様に儚げに。しかしどこまでも確かにそこに美しく。



秋空の下に咲く、赤い花を思い出した。

葉も無く大地に突き刺さる様に太陽に面を向ける。幻の様に鮮やかに。祝い事の前触れに、天から降る言祝ぎの花。



今でも、思い出せる。

彼――――――は師匠の言葉を無視して、俺を抱え牢から連れ出した。

勝手は許さん、と憤慨した師匠は、の鋭い眼光に何も言えなくなっていた。



思いは一変した。この人は優しいと、とてもとても優しい人だと感じた。

優しくて、だからとてもかなしい人なのだと、感じた。

何故かなしい、なのかは分からなかった。今も、分からない。

けれどだからこそ、傍にいなければ、と。一緒にいなければ、と思った。










あれから4年。は師匠の従卒から、特務師団を与えられた俺の副官になった。

時間を見つけては俺に会いに来る生活をしていたは、任務以外では常に俺の傍にいる様になった。



・・・・・・ヤツ、の現状も。は全て俺に話してくれた。

師匠の話と食い違う内容だったが、その時には既に、師匠よりもの方が、オレには信頼出来る人物で。

俺の所為で、俺の身代りで、死ぬ為だけに作られ生温い牢獄めいた屋敷に閉じ込められ飼殺されている生命は、それでも俺に会いたいと言ってくれた。

ガイが、俺とアイツが入れ替わっていたのを見抜き、けれど誰にも言えずに、ずっと悩みながら俺の事を案じていた事も知った。

それらは、俺の拠り所となった。



そして、もうひとつ。

俺は忘れなかった。忘れられる筈がなかった。










一度、アイツからきた手紙の返事を、に頼んで届けて貰った。

他人宛の手紙を盗み読むなんて無粋な真似、は絶対にしないと解っていたが、それでも読むな、と念を込めて。



落ち着いたらこっそり会いに行く、と書いた。会って色々、話をしよう。

それから、を見ていると俺はあの花を思い出す、と。

秋になれば艶やかに。葉を連れ添わせる事も出来ず孤独に咲く。触れれば捥げる脆い硝子細工めいた。

だから其方にいる時だけで良い。傍にいてやってくれと、書いた。



俺は忘れない。忘れられる筈がないし、忘れようとも思わない。

あの時、見たもの。あの時、感じた思い。



の。太陽から降り注ぐ様に咲いた、あの赤い花の様な微笑みを。




 




 




 




 




 










<<バック トゥ トップ>>