窓の外。見上げた空に、黒い鳥。
火影と、暗部との間を繋ぐ其の羽に、ナルトは小さく息吐いて。
直後、霞の様に姿を消した。
残るは小さな、風一陣。
忽然と。生まれ出でた気配に、火影は目を通していた書類から、顔を上げる。
目前には、其の存在を主張する金の髪が、さらりと揺れ。
闇の中に在って尚、鈍く輝く。其れはまるで月の様。
「早かったな」
「トーゼン。で?今日はどんな任務?」
声を掛ければ、不適に笑う。
そんなナルトに、火影は一瞬、言葉を捜し。
「任務・・・・・・と云うよりも、遣いじゃな。今宵は」
「遣い?何の?」
訝しげに眉を顰める少年に、老人は淡々と。
「何処かの不届きな輩が十程侵入して来おってな。一刻程前に『月』を行かせたんじゃが――――――」
出てきた名に、すぅ、とナルトの目が細まる。
纏う気配が刺々しいものに変わった事に気付きながらも、火影は続けた。
「当に帰って来てもおかしくは無いと云うに、未だ戻らん。済まぬが、ちと様子を見に行って来てはくれんか」
「断る」
即刻で返って来た応え。
矢張り、と。予想を違わなかった言葉に、溜息を吐き。
用件は其れだけかと、踵を返し外へと向かう小さな背に、低く低く呟いた。
「・・・・・・彼奴には、壊れる事しか許されなんだ」
ひたり、とナルトの足が止まる。
肩越しに振り返る蒼い目を、ひた、と見据え。
「狂う事しか、許されておらんかったんじゃ――――――お主と、違うてな」
搾り出す様な其の老人の声音は、まるで哀しみを含んだ冬の風。
人という生き物に、過大なる夢を持ち過ぎた、愚かな妖。
妖を、欲を満たす為の力としか認識しなかった、莫迦な人間。
其の結果多くの犠牲を払って来た、忌まわしきは己が体内に流れる呪いの血。
――――――否。真に忌まわしきは、未だ我を壊し切れぬ己自身か。
産まれ堕ちた其の瞬間から死んでいた心に、自我が在ると云うのは何とも理解し難いが。
くつり、と口角が歪む。愉しいと思いもせぬのに、哂う。
こういう時にはそうするものだと。決して長くは無い人生の中で学んだ。確か自嘲といったか。
どうでも良い。どうでも良い事だ。己の思考の存在など、大して価値は無い。
其れよりも何よりも、己が今、すべき事は。
此の生温い肉で甘い血で。己の内で暴れる嘆き哀しみ憎しみを、宥めあやす事。
そして、未だ崩壊せぬ己の自我を、完膚無き迄に叩き潰す事だ。
本来の器を失った、妖に己の此の器を還し明け渡す為に。
天上に、浮かぶ丸く白い月。
其れを見上げ、は手に着いた、誰のものとも知れぬ返り血を、ぺろりと舐めた。
枝を蹴り、宙を跳び。ナルトは夜の森の中を疾走る。
――――――彼奴は、産まれて直ぐ地下深くに幽閉されての。
思い出すのは、沈痛な趣の老人の声。
――――――人の声を聞く事無く。人の手に触れられる事無く。食事や水すら、与えられず。
ともすれば、獣を宿す業を知らぬ間に背負わされた、己よりも更に深い、闇。
そんな事実など、微塵も見せなかった青年に、驚愕する。
――――――陽の光すら届かぬ石牢の中で十余年。器が育ち切る限界まで。殺される為だけに、生かされておった。
くらり、と思わず眩暈がした。
日溜りの中で、育って来たのだろうと思っていたのに。
幾つもの、夥しい程の愛情を注がれていたのだろうと、思っていたのに。
――――――彼奴の中にはの、ナルト。お主と同じ様に人成らぬ者が封じられておる。そして其れは恐らく、九尾よりも厄介じゃ。
頭から、行き成り冷や水を掛けられた様な、気分だ。
此の、己ですら。
幼い頃から空の色を大地の熱を草の香りを、知っていたというのに。
ごく僅かでは在るが、人として見てくれる者がいたというのに。
――――――そして彼奴は、己が人だという事に全く気付いておらん。否、人がどういったものかも判っておらんのじゃろう。
只。
一族の為に。故人の欲の為に。
産まれ堕ちる以前より、定められた。
妖を、植え付けられる為だけの。
只の、道具。
――――――じゃからこそ彼奴は、壊れる事に抵抗を見せんし狂う事に躊躇いを持たん。そして・・・・・・
己 が 道 具 で 在 る な ら ば 其 れ は 至 極 当 然 の 事 だ と 。
「・・・・・・んな、バカな話があるかよっ!」
遣り場の無い怒りが湧き上がっては、声に出して吐き出し。
ふと、以前。彼の前で未だ『表』の仮面を被っていた頃を、思い出す。
年相応の子供を模してじゃれ付けば、くっつくな、と言われた後に必ずと云って良い程付け足された言葉。
汚れるだろ?
柔らかい響き。暖かい眼差し。常と変わらぬ、控えめだが屈託無い、明るい色素の笑顔を穿いた。
汚れるだろ?
何を思って、彼は其の一言を告げていたのだろう。
「・・・・・・っっ」
纏まらない感情に、きゅ、と唇を噛み締め。
「・・・・・・コレ以上、狂われて堪るか・・・・・・!!」
蒼く白い月を見上げる目には、其れを射落としそうな程に鋭い殺気。
火影から聞いた、が向かったという場所に向かい直走る。
徐々に死に絶えていく虫の音。代わりに、周囲に漂い始めるのは濃い、香り。血の香りだ。
そして開けた、林の中。
探した姿を認め、一瞬足を止め。
「っっ!!」
叫びながら。今、正に喰らい付かんとしていた肉の塊を、其の手の内から叩き落とす。
きつい眼差しで、見上げた瞳は虚ろの様な朱金と青銀。
――――――呑み込まれそうな、気がした。
此れ程迄の深淵を、ナルトは知らない・・・・・・ナルトですら、知らない。
思わず。の身に着ける、黒とも深紅とも付かぬ色合いの暗部服に、両の手を伸ばし。
其のまま、真正面から抱き付き其の身体にしがみ付く。
全身の震えが、止まらない。
九尾の気配が、毛を逆立てた様に威嚇を発する。
此れは危険だ宿主、と。
脳裏に響いた意思に、ナルトは其れでも、と胸の内で応えを返し。
「任務、終わったんだろ?だったら油売ってねぇで、さっさと帰ってきやがれ」
胸に額を付けたまま、静かに発したナルトの言葉に。
漸く、がゆるり、と小さく動く。
其れに気付いて見上げれば。
未だ底の無い闇を湛えた金銀妖目のままに、ほんの僅かにナルト、と動いたの唇。
そして、其の後。
よごれる、と。
音も無い呟きは、其れでも確かにナルトに届き。
「・・・・・・いーんだよ別に汚れたって。それよかもう帰ろうぜ?じっちゃんが心配してる」
何処かが痛む心を堪えながら。有無をいわさず其の手を引き、歩き出す。
からは、何の反応も返ってこなかった。
言葉も抵抗も、何も無かった。